昭和49年08月13日 朝の御理解
御理解 第19節
「金光大神は形がのうなったら、来てくれと言う所へ行ってやる。」
甘木の安武先生が甘木に布教に出られる前に、こちらの奥様が御夢を見られた。一人のお爺さんが一生懸命に、荒れた地を耕しておられる様子であった。そこを通りかかられるとそのお爺さんがその奥様を呼び止めて、帰ったら安武に言うておけ。神は耕しはしておくと伝えておけと、仰ったという御夢だった。安武先生が小倉で長い間のご修行をなさって、そして全然甘木というところがどこにあるかも分からない。
甘木に布教地と定めて、頂かれたところに布教に出られて、そして甘木に、後にああした一大御ヒレイを輝かされた。まあそう言う事から、思うて見てもです、金光大神は来てくれというところへ来て下さるだけではなくて、どうぞ行って下さいと言うところにも、行って下さる事が分かります。来てくれという処だけはなくて、自分がおるところに神様が来て下さる。
自分が例えば、行っていなくても、どうぞアメリカに行って、どうぞ、中国に行ってと、こうお願いをすれば、中国にでも、アメリカにでも行って下さる事が分かります。私は日本におっても、例えばね、勿論、形がのうなったらと仰せられる、いわゆる魂の世界、いうならば、神様の世界にお入りになって、いわゆる、自由自在と申しますかね、の御働きが出きられると言う事を、例えば生前に仰っておられたことが、御理解十九節だと思うのですけれども。
私共は祈るところ願うところにも金光大神の御取次ぎが頂けて、そこにも来て頂かなければならないと同時に私はまた行ってももらわなければならないと言う事。昨日から言われております合楽示現活動と言う事。そういう例えば御用にお使いまわし頂く、いうなら挺身させてもらう。そこで今日はどこどこにもやらせて頂こうという前にやはり願っておらなければならない。
神様今日は例えば、久留米地区に行かせて頂こうと思います、福岡地区にやらせてもらおうと思います、とそのもう行く前に神様が準備をしておってくださるような願いもまたさせて頂いてよいと言う事が分かります。またしなければなりません。それはまたお願いをしなくても、安武先生の場合はどこどこに行って、どうぞ荒地の布教ですから、その荒地を耕しておって頂く、成程甘木の安武先生、甘木に出られると、それこそ、瞬く間に沢山の人が集まり助かったというわけです。
そこの、修行生の方達がうらやましがるほどしであった。ある時に桂先生に「安武先生達はどうしてあんなにあの、御ヒレイがたっておるだろうか、輝くだろうか」と言われた時に、桂先生が仰った。「安武はね、舞台裏の修行が大きかった」と。いうならば縁の下の力持ちの時代が多かった。その時力を受けておった。お芝居でいうならばです、舞台に出らなかったけれども影での裏での、稽古が十分に出来ておった。だから花道に出たばっかりで千両という声がかかっておるようなものだと仰っておられます。
ですから私共がですなら安武先生がどうぞ私が甘木に行きますから、甘木の方をよろしくお願いしますと仰ったわけでもなかろうけれども、神様の方が、先生のご修行に対して、もう先回りをして準備をしておって下さった。いうならば宣伝をしておってくださった。安武というものがここに教会を開くから、まあいうならばみんながそこに集まるようにいうならば、下準備下ごしらえがしてあったと言う事になります。
合楽の場合いうならば二十五年間、いわば広がろう、広めて頂きたいと言った様な事はもう一切、それはたまには言いたい事もあった、一、二回の大祭じゃけん大祭には参って来なさいよと言う様な事はたったその位のことでも言わなかったのですからね。お導きとかいうならば宣伝とか言うことは全然、言うてこなかった。そしていうならば修行をさせて頂いておったのですから、もう神様がね、日本国中どころか世界中にです、そういう準備をしておって下さった二十五年だと私は思いました。
だからどこに行ってもです、いうならばおかげの頂けれる、皆さんが例えばどこに、示現活動に邁進されても行くところ行くところにです、例えば御話しの場というか、合楽を現すことの出来れる働きが出来ておった。出来ておると御互いが私は確信を持たなければいけないと思う。天地の親神様が世界に和賀心時代を創造なされたいという願い。神様のこれは願いのなのである。神願、神の大願だと私は思います。いよいよ全世界に、地球上いたるところにです、合楽を現す働きが生まれてこなければならない。
私昨日ある本を見せて頂いておりましたら、アメリカがアメリカさんが言っておる言葉の中に、世界国家という言葉があるそうですね。世界国家。私はそれを聞かせていただいて、素晴らしいことだなあと。まあいうならば世界が一つといったような意味じゃないでしょうか。それは勿論赤もあれば青もある。白もあれば黒もあるというわけでございますけれどもね、それこそ先代教主様が仰った、全教一心と又は全教一家とか、教えられたのはそういう意味だと思う。
あらゆる宗教が世界いたるところにあります。そういう例えば宗教が一つの宗教の様に固まって、世の中の難儀に取り組ませて頂くと言う様な働きが出来る様にならなければならない。それには世界国家と言う様な観念が出来なければならない。私共の世界国家というその事を成程、素晴らしい言葉だなあと思わせて頂きよりましたら、一体全体と頂きました。言うでしょう一体全体あんた、と言う様な意味の事を言うでしょう。それを私は一体全体と頂いたが、一体と書いて一つの体と、全体と全ての体と書いて。
全体は一体であり、一体は全体に通じるのだと言う事だと私は思わせてもらいました。お前は一体全体なんば考えておるかと言う様な事ではなかったと思うのです。大きな事ばっかり思うてからと言う様な意味じゃなかったと思うのです。その一体全体というのは一体は全体に通じるんだと。全体はまた一体なのだと。いわゆる世界国家とね、アメリカで言い出しておるというのはそういう意味だと思う。そういう一つの理想世界をですね、暗示したのが私は一体全体だとこう思うです。
昨日そんな風に感じました。金光教なら金光教だけが合楽なら合楽だけがどうこうと言う事じゃない。けど金光教内に持ってくるならば、どこの教会もここの教会もです、いうならば、一家のような働きを現し、その大きな力をもって世の難儀に当たっていこうと言う事だと私は思わせてもらう。それをなら金光教だけではないキリスト教もよかろう天理教もよかろう仏教もよかろう。
何々宗何々教その全部いうならば、宗教が一家のようになってその実を挙げていくと言う様なその働きをこれから、していく働きを現していく、それが合楽示現活動だと思います。例えばなら、末永先生あたりがブラジルに布教をしたいと、久富先生あたりが、ハワイに布教を思い立たれるとか言う様な場合であってもね、それはハワイに合楽を現しに行くのであり、ブラジルに合楽を現しにいくのであり、そういう大きな願い、そういう例えば理想世界の顕現を願っての信心。
そこに私は合楽示現活動運動に、邁進するというなら、そういう大きな願いをもって、まず手元のところからそこを現していかなければならないと思うのです。その為には神様が、私共が来て下さいと言う所に、来てもらうと言う様な事ではなくて、それこそ世界中をかけまわって頂いて、頂かなければならない。それには私共がです、その覚悟がいる。折角ブラジルに、例えば教祖さまがおい出て、開墾しておって下さっても、誰も行きてがなからねば出来ん。
随分本部の方では、ハワイ、ブラジルあたりにも行きたいけれども、行きたいという先生がおらん。たくさん先生はおるけれども、それだけ勇気のある先生がおらん。もちろん布教にいろんな問題も、付随しておることでございましょうけれどもです、困難な問題もあるのでしょうけれども、困難な問題を克服してでも、遣らせて頂こうというそういういわば腹というか、その修行ができておらなければできん。根も葉もないところにぽかっとわけにはいかん。
神様が行けと仰るなら、どこまででも行こうという腹を、私共が据えた時に、神様が至るところに先周りをして、道の開ける準備をして下さるという風に思います。大変今日は大きなことを、聞いて頂きましたけれども、例えば今、合楽示現活動と言う事にまあ、挺身させてもらう、邁進させてもらうという、いうならば私共の手元のところの、信心をです思いましても。
やはり自分が行くのじゃない神様が言って準備をして下さってあるのだと、と言う様な確信に満ちた思いでその活動に参加させてもらい、いや、参画しなければならないと思います。金光大神は形がのうなったら来てくれと言う所に行ってやる。いうならば自由自在においでられる事ができる、ところで自分たちが行こうとも思わん例えばそういう運動に、参画しようとも思わないものがです。
金光様どこいっといて下さいというたっちゃ、話が通りません。自分が本当にそういう心でおりますとです、神様がちゃんと道をつけて居って下さる、道を作っておいで下さる。自由にされたから、どこにでもここにでも行って下さいとか、来て下さいとか言うても、それをね、受けて立たせて頂く私共がです、本気でやっぱその気になっておかなければできないと言う事を、今日は十九節から頂いてまいりました。
どうぞ。